親の注意を無視する子供を作るな

近年、親の注意を「無視」する子供を見かけることが、あまりに多くなった。また、子供が自分の注意を「無視」しても、親はその後何をするというわけでもない。この傾向は、年々増してきているが、特に我々の世代が親になってから、顕著であるように思える。

結論からいえば、親は子供が人前で自分の注意を無視することを、このうえない「恥」として認識すべきである。家庭内で、子供に下に見られるような育て方をしている、というこである。また、子は「親の注意を聞く能力」を持たない自分を、恥じるべきである。そういう子供は、自分の気が向いたことにしか努力できない人間に育つからである。

子供に対する愛情には、子供の人間性をゼロから作り上げて、責任を持って世間に送り出す、ということが含まれるはずであるが、何故か我々の世代ではその「世間」という部分が欠落した親が多いように思われる。原因は何か? 体罰の否定、宗教や国家の否定、栄養の低下、少子化、教育費の高騰、など色々と考えられ、またその全てが原因であろうが、根本的には人間観のリベラル化があって、誰しも今のまま、ありのままで価値がある、という考え方が、何の上位概念もなく浸透していることが挙げられるかもしれない。

アメリカのリベラリズムには、上位概念としての「国家」や「キリスト教」があり、いくら自由であろうと、小学校では毎日、国家に忠誠を誓っている。日本の場合はそういう縛りのないところに、自由や平等だけ輸入されて蔓延しているきらいがある。

人間は、あくまで、人間として周りに作り上げられ、また本人も作り上げることによって、人間としての価値を持つのである。その敷居としての「世間」よりも「個人」を上位に持ってくる教育が、家庭内で行われつつある、ということである。そういう、親の注意を無視し、叩かれもせずに、身体だけ大きくなった「大人もどき」が次々と成人して、選挙権を持ち、自分たちの老後の日本を形成するのだと思うと、やはり心中穏やかではない。「人のうちの教育に口を出さないで頂きたい」と言われたとしても、その被害は間接的にこちらに及ぶのだから、やはりそれ相応の口は出すべきなのだ。昔は村全体で教育したはずである。