ゲームブック的ということ
ターザン山本氏はかつて「ターザンカフェ」の中で、保坂尚輝と布袋寅泰の騒動について
布袋は見るからにというか、どうみてもその存在感はプロレスラーに近いものがある。
と言った。氏がこのように「プロレスラー」という時は、現状のプロレスラーを指していない。プロレスラーが、プロレスの全盛時代に、彼(そして我々)に感じさせてくれたイメージが、イデアに昇華しているのだ。
僕は「ゲームブック的」という言葉を、同じように使うことがある。
「THIEFはゲームブック的だ」「FFXIはゲームブック的でない」「でもラテーヌを低レベルで通過するときはゲームブック的なものを感じる」と言うとき、はたまたヨーロッパを旅行中に「この城はゲームブック的だ/でない」と言うとき、それはかなり抽象的な次元で言っているのであって、決してTHIEFがパラグラフ選択式になっていたり、とかいった意味ではないのだ。しかし抽象的であるにも関わらず、ゲームブックの時代にゲームブックと真っ直ぐ向き合った人は、ほぼ確実にこの感覚を共有しているのが興味深い。同時に、「ゲームブック的」という言葉が通じるかどうかが、当時ブームだから手に取ってみただけの人と、真っ直ぐ向き合った人の弁別素性でもある。