鏡に映ったら何故左右だけ逆になって上下は逆にならないのか

(再び http://d.hatena.ne.jp/Cream/20041120#p2 にインスパイアされてます)

以前に読んだ本(タイトル忘れた……)の第一章で「鏡には「左右」と「上下」に関して差はないように思われるのに、どうして鏡像は「左右」は入れ替わっているのに「上下」は入れ替わっていないのか」という問題を取り上げていたことがあって、久々に再考してみた。この問題は、幾つかの側面で興味深い。

  • 数学が、直感的な概念を分解するのに役立つこと。言い換えれば、概念を数学的に表すことで、同じだと思いこんでいた概念同士の違いに気づいたりできること。
  • ところが、数学的に問題が解決したあとにも「ではなぜそのような異なる概念同士を同じと思いこんで/思いたがっていたのか」という認知的な問題が残ること。

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まず、こちらの物体が、鏡の世界ではどこにあるように見えるのか、を考える。仮に、xyz軸の直交座標で空間を考え、x軸が「右」y軸が「上」z軸が「正面」を指しているとし、{|y=0}の平面上に立っているとする。{|z=0}の平面が一面鏡張りであると考える。つまり、我々はz<0の世界におり、z>0の世界は鏡の世界というわけだ。どんな場合であれ、回転と平行移動によって、これらの仮定に当てはまる。

さて、こちらの世界の点(c<0だがいちいち断らないことにする)は、鏡の中ではにあるように見える。このことは、光の入射角と反射角が等しいことから計算できるが、ここで気づくことは、実は鏡の中では「左右が入れ替わる」のではなく「前後が入れ替わる」ということなのだ。つまり、後頭部が奥に、鼻先が手前に来るのだ。つまり、何が起こっているかを数学的に捉えてみれば、鏡には「左右」と「上下」に関して差はないことが確認できる。「x座標は保存される」という意味では、実は左右は入れ替わっていないのだ。

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しかし、ここから認知科学的な疑問が生じる。我々はなぜ「前後が入れ替わっている」鏡像を「左右が入れ替わった」と認識するのだろうか。

先ほどの例から、(以下Cは平行移動を表す)

左右が入れ替わる写像:→<-a,b,c> +C
上下が入れ替わる写像: +C
前後が入れ替わる写像: +C

ということが分かるが、それに加えて、

前転逆立(x軸を中心にした回転): +C
振り向く(y軸を中心にした回転):→<-a,b,-c> +C
側転逆立(z軸を中心にした回転):→<-a,-b,c> +C

を考え合わせると、正面にある鏡の中の像(前後が入れ替わった像)は、「左右が入れ替わって、振り向いた像」と等しいのである。すなわち、

= →<-a,b,c>○→<-a,b,-c>

が成り立つ(○は写像の合成)。これが我々が鏡像の「左右が入れ替わっている」と認識する背景であり、「前後が入れ替わっている」と認識するよりも、「左右が入れ替わっており、かつ振り向いている」と認識するほうが、認知的なコストが低いのだと考えられる。

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しかし、ここで更にいくつかの疑問が生じる。

まず、前後が入れ替わっている、と認識するより、左右が入れ替わっている、と認識するコストが低いのは何故か。

また、「左右が入れ替わっており、かつ振り向いている」と認識する以外に実はもう一つ等価な写像のオプションがある。「上下が入れ替わっており、かつ前転逆立している」というものである。すなわち、

=

が成り立つ。だとすると、なぜこのオプションでは認識しないのか。これらを「鏡像における認知コストの問題」と呼ぶことにしよう、。

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これに対する一つの仮説として、正確な意味で上下や左右が「入れ替わる」という状態を想像するのは難しいことで、実は表題の意味で我々が「左右が入れ替わる」と思っているときは、たとえば「右手と左手の持ち物を取り替える」「シャツを左右逆に着る」程度の入れ替えなのだ、という可能性を考えてみよう。この入れ替えを「疑似入れ替え」と呼ぶことにする。疑似入れ替えでは、左右で同じ部分は入れ替えずに、左右で「異なっている部分」だけを入れ替えているのだ。

視点を変えれば、「我々の身体の形が、比較的左右対称である」が故に、「左右の入れ替え」では疑似入れ替えが可能なのだ。「前後の入れ替え」「上下の入れ替え」では疑似入れ替えができないため、難しい想像を要する。したがって、様々な「入れ替え」と「回転」の組合せの中から、「左右の入れ替え」を含むオプションを優先的に選択するのではないだろうか。

この説が生み出す予測としては、「上下が比較的対称であり、左右は対称でない」ものの鏡像は、むしろ「上下が入れ替わっている」ように認識するのではないか、ということだ。たとえば、「横にしたギター」を鏡に映してみる。これは「上下が入れ替わっている」ように見えるだろうか。

しかしこれは、左右が入れ替わった「左利き用ギター」に見える。つまり、この仮説は間違っている。いまのところ、「鏡像における認知コストの問題」についてはオープンとしておきたい。

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(その他に「上下方向には重力が働いていること」も考えてみましたが、ここでの上下というのは実は主観的な上下であり、横に寝そべって鏡を見ても、やはり左右が入れ替わっていると考えるので、関係ないと分かりました。また、「両目が左右についていること」等は、片目で見てもやはり左右が入れ替わっているわけで、やはり関係ないようです。)