マクベス:演劇集団円

ka-lei-do-scope2005-07-23

二〇〇三年の「リチャード三世」に続く、演劇集団「円」のシェイクスピア劇第二弾。

前作「リチャード三世」と同様、中世風コスチュームや舞台セットを作らず、衣装は普段着、セットは鉄骨、というアプローチで、いわば「新しい解釈の、敷居の低いシェイクスピア」を目指しているのだと思う。

前作「リチャード三世」では、「俺たちなんかがシェイクスピアやっていいのかな」という劣等感と、「今の若い奴は誰もシェイクスピアなんか観ないじゃないか。シェイクスピアをそのままやるのは時代とずれてる。でも、こんな風にやってみたら面白いんだぜ」的な意気込みが、悪い具合に混じり合って、シェイクスピア的長台詞を言うときに、どことなく自嘲気味になってしまったりして、あまり良い印象を受けなかった。

しかし今回は、おそらく二回目のシェイクスピア劇ということがあり、その劣等感のような感情が薄れ、少し余裕をもって取り組んでいるように思われた。その余裕によって、本来彼らが彼らなりにシェイクスピア劇に見いだそうとしていた面白さが、少しずつ表現できるようになってきているのではないか。実際、今回は芝居として心に届く部分があったと感じた。

その「心に届いた部分」というのは、運命に翻弄されながらも、目の前の敵と戦おう、という闘志であった。「戦うという決意」が、その瞬間に役者から表出されていたのを感じたのである。ただその点は、シェイクスピア特有の魅力ではないように思う。自分が感じているシェイクスピアと、円が見いだしているシェイクスピアの間には、乖離があることは間違いない。ただ、心のチャンネルを円の方に合わせることができれば、楽しめると思う。

この乖離は、次のような状況を想像させるものだ。〜演出の平光琢也さんにとって、シェイクスピアの面白さは良く分からないもので、長らく、普通の演劇より退屈で堅苦しいと感じていた。ところがその後ひょんなことからシェイクスピアを読み直すか、翻訳者と対談するなどの機会があって、シェイクスピアは「実は普通の人間ドラマなのだ」と気づき、そこに着目して演出すれば「普通に面白いのではないか」と思うようになった。そして、昔の自分と同様、シェイクスピアがつまらないと思っている人達に、新解釈のシェイクスピアでその面白さを伝えたい、と思っている〜、という想像だ。

しかし、それは時代と文化の違いに阻まれて、シェイクスピアの敷居を勝手に高くしてしまっているだけの話であって、シェイクスピア劇がドラマとして普通に面白いのは当たり前のことなのではないか、と思うのである。そして、シェイクスピアは決して「普通に面白い」という程度に留まるものではない。

以前から、シェイクスピアシェイクスピア的な面白さというのは、実はあまり認知されていない部分にあるのではないか、と思っている。マクベスで言えば、たとえば次の台詞の「わしにもくれ」の部分だ。こういう「間」を醸し出す作品を他に挙げるならば「ジョジョの奇妙な冒険」や「ドラえもん」であると思う。

魔女 「ある船頭のかかあに遭ってな、そいつ、前掛けのなかに栗を一杯いれて、ひっきりなしに口をもぐもぐさせていやがったので、「わしにもくれ」そう言ってやった。ところが、その肥っちょの下司女め、こうぬかしやがった。

ただ、未だこれは直観であって、「シェイクスピア的であるとはどういうことか」という問いに対する答えはまだ出せていない。シェイクスピア論については、いずれ決着を付けなければならないと思っている。