意味論としての映画編集論

id:su1さんを講師に迎えて、映画の勉強会をしました。これまで幾度となく映画について論じ合って来たのですが、それは彼が持論を言えばこちらも持論を言い、その中から新しい発見を目指す、といった議論であって、彼の持論そのものを体系的に一から勉強するのは今回が初めてであったような気がします。

今回のテーマは「レンズ」。スピルバーグの「激突!」「ジョーズ」を題材に、「広角レンズ」「標準レンズ」「望遠レンズ」の使い分けとズームについて。それらがそれぞれどういう視覚効果があり、それらがどういった心理効果につながるか。それを踏まえた上で、各シーンでどのレンズを選択するか。その結果として映像がどう見えるか、ということを教わりました。

映画製作者にとっては基本的なことのようなのですが、それらが映画において予想外に大きな情報を占めていること、そして我々映画の素人(制作側でない、という意味において)はそれらについてほとんど意識していない(にも関わらず映画を語ろうとする!)ということに衝撃を受けました。

映画の各シーンにおいて、我々の心には様々な感情が生じるわけですが、我々が映画について語るとき、ほとんど常に、生じた感情の側から語ると思うのです。たとえば、「激突!のトレーラーは、病んだアメリカの象徴に思われた」といった的はずれな批評にしても、フィルム上のトレーラーをみて、何らかの(おそらく恐怖に近い)感情が生じ、その感情について「病んだアメリカの象徴」と表現しているわけです。

しかし、なにがそのような感情を生じさせたのか、なぜそのような感情が生じたのか、という問題はより本質的であり、生じた感情について語る、というのは、そのような本質的問題への分析を前提として語られるべき副次的なものであろうと考え直しました。

映画の編集論は、いわば「映画の意味論」であり、制作論に留まるものではない、と感じました。次回が楽しみです。