天職

マックス・ヴェーバー「職業としての政治」(脇圭平訳)より:

しかし現状は違う。現在どのグループが表面上勝利を得ていようと、いまわれわれの前にあるのは花咲き乱れる夏の初めではなく、さし当たっては凍てついた暗く厳しい極北の夜である。実際、一物だに存在しないところでは、皇帝だけでなく、プロレタリアまでもその権利を失ってしまっている。やがてこの夜が次第に明けそめていく時、いまわが世の春を謳歌しているかに見える人々のうち、誰が生きながらえているだろうか。また、諸君の一人一人ははその時どうなっているだろうか。憤懣やる方ない状態にあるか、それともすっかり俗物になり下がってただぼんやりと渡世を送っているか、それとも第三に、そう珍しくもないケースだが、――もともとその素質のある人や、(よくある悪い癖で)そういう真似をしようと夢中になっている連中のように、――神秘的な現世逃避に耽っているか。以上どの場合についても、私はこう結論するであろう。この人たちは自分自身の行為に値しなかったのだ、あるがままのこの世にも、その日常の生活にも耐えられなかったのだ。つまりこの人たちは自分ではあると信じていた政治への天職を、客観的にも事実の上でも、深い内的な意味で持っていなかったのだ。むしろ彼らはも会う人ごとにありのままに素直に同胞愛を説き、ふだんは自分の日常の仕事に専念していればよかったのだ、と。

 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、――はなはだ素朴な意味での――英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。