「省略」と「見立て」

『1/24を超える』アクション演出について。http://d.hatena.ne.jp/su1/20040719#p1

これは素晴らしい論評だと思います。目から鱗が落ちる。これまで、映画以外、たとえば絵画は、一枚の絵で世界、あるいは作家の認識を伝えなければならないため、観る方の「見立て」で補わなければならない。そのとき、どういう見立てをするかが、作家と観客の信頼関係なのだと思っていました。同じ事が、ボードゲームや小説にも言えるはずです。しかし映画については(最近のコンピューターゲームについてもそうですが)情報量が多いため、「見立て」が必要かどうかは意識したことがなかったのです。

ところがそうではない。映画といえども『一秒間24コマの静止画を連続させての残像効果で「動画」を作り出している』わけで、与えている情報には限りがあり、現実と同密度*1ではない、という点では他の芸術と変わらないわけです。よく考えれば当然のことで、映画には味覚・嗅覚・触覚の情報はないわけだし、見えないアングル、聞こえない音だってあるのですから。

つまり、芸術はすべて宿命的に「省略」を伴い、「省略」は観客の「見立て」で補われるがゆえに、その「省略」がどのような効果をもたらすかは「観客との信用」の問題となってくる。

このことと表裏をなすのが「この作品にテーマなんてない。見た人が好きに感じてくれたらいい。10人いたら10の違った解釈があっていい。」という考え方なのですが、これまでの経験で言えばこういう投げっぱなしタイプの作家は、感受性が鈍いために自分のやっていることが面白いかどうか分からない作家か、きちんとした作家なんだけど自分のやっていることを言葉でうまく言えない作家のいずれかのようです。傾向として、若い場合は前者、若くない場合は後者が多いようです。

やはり優れた作品というのは、作家の側に表現したいモノ(言葉では表しがたい何か)、それを表現せずにいられない衝動がまずあって、それを映画なら映画、絵画なら絵画、ゲームならゲーム、という選択したメディアの情報と省略の中でいかに構築するか、デザインするかという技術の次元があって、それに対して観客も観る目を鍛え、「見立て」によって作家が表現したかったモノを自分の中に再構築していく。*2これは人と人が理解し合う数少ないシステムの一つで、作品さえ残っていれば、作家が死んでいても理解し合えることが素晴らしいわけで、芸術というのは、先鋭化した生存欲なのではないかとも思うわけです。

*1:もう一歩踏み込んで言うならば、我々は五感を通して「しか」世界を認識できないわけで、「潜水艦の中から計器の情報を頼りに深海の状況を判断するのに似ている」と例えられることもあります。すなわち、現実にも我々は「省略」と「見立て」の中で生きている、その中で生きざるを得ないわけで、このことが芸術での「見立て」において、作家と観客の暗黙の合意の出発点を作っているのではないかと思います。

*2:ここまできてはじめて、その受け止めた「モノ」に対してどう感じるかは10人いたら10の違った解釈があって良いと言えるわけで、何もデザインしていない作家がそれを言っちゃダメだということです。