動機について(1):ドニー・イェン、ケンシロウ、セオデン王

http://d.hatena.ne.jp/su1/20041126#p2 より)

物語の中で戦う動機として、「怒り」というのは比較的安直な部類に入るもので、あまりほめられたものではないと思うのです。その理由は、怒っての戦いには、勝ったとしてもカタルシスがないからです。怒る理由として、その前に何かを奪われたり失ったりしているわけですが、復讐を果たしたとしてもそれが戻ってくるわけではないので、観客としてはあまり自分の身の上を重ね合わせたいような状況ではないのだと思います。

「ドラゴン危機一髪’97」の最後の戦闘も、怒っているのはいいんだけど、話としてはなんだかゲンナリしますよね。「北斗の拳」でも当初ケンシロウは「怒り」を「強さ」に変えていることになってますが、途中から「悲しみ」を「強さ」に変えるようになるし(笑)。

ですから、動機としてはロード・オブ・ザ・リングで「我が民(マイ・ピープル!)」を守るために戦ったりする方が、燃えるのではないでしょうか。「個人的」感情である怒りよりも、少し高次な「民族的」あるいは「国家的」感情がそこにあるからだと思います。「地球的」感情となると少々偽善めいてきますが。

そういう意味で、「マッハ!」であまり怒らないのは、むしろ妥当なのではないでしょうか。あの映画の背後にはおそらく仏教的無常感があって、死も自分でどうこうするべき問題でもないし、また生まれ変わったり仏様になったりするのだから、その事実とは無心で向き合わねばならないのです。