動機について(2):拳児、ボロミア、麻薬組織に一人で立ち向かう男

http://d.hatena.ne.jp/su1/20041128#p1
を読んで更に考えたのですが、登場人物の動機が「怒り」の場合も、いい場合と悪い場合があって一括りにはできないのかもしれません。たとえば、たまにテレビで見かけるB級ハリウッド映画の予告で「家族を殺された男が、たった一人で麻薬組織に挑む!」というナレーションを聞くと「もっとどうにかしようがあるだろう」と思うのですが、「拳児」の七巻で、トニー譚*1の仲間に、先輩の藤吉さんが殴られているのをみて怒るシーンは、同じ「怒り」でもぐっとくるものがあります。次に拳児が登場するコマでは「階段の上から逆光で登場」なのも燃える*2

この差に対する仮説を立てます。実は「『怒り』か、もっと高次の感情か」という感情の種類の問題ではなくて、「どういう精神が描かれているか」という感情の主体の質が重要なのではないでしょうか。

先の例で言うと、前者のように、あまりきちんと描かれていない主人公が、誰でも怒るような状況になって怒る、というのは別に観るほどでもないのですが*3拳児の場合は、彼の生き方とそれを形成するバックグラウンド自体が前半のテーマでもあり、丁寧に描かれているので、そこで怒る、というのは彼の生き方の表出にすぎないわけです。言い換えるならば、そこでは「怒り」そのものに感情移入するのではなく、そこで怒りを感じる彼の「精神」に感情移入しているのです。義侠心とか、正義感とか、そういったところで怒る人は現代では少なくなっている、という意味で。

つまり観客は、自身を取り巻く日常の精神より「一段階」高邁な精神を見るために、そしてそれに感情移入して「一段階」高邁な時間を過ごすために映画を観に行っているのだとすると、普段の精神によってニーズが決まってくることになります。たとえば、普段怒りたくても怒れず辛い思いをしている人が、取りあえず何でもいいから怒りたい!と思えば、先の麻薬組織殲滅映画でもいいわけです。普段燃えるような恋愛がないとかで、泣くような感情の高揚がない人は、取りあえず泣ける映画!となるわけです。そして二段階以上高邁な精神については「良く分からない」「退屈」となるのかも。

高邁な精神を見せている例として、まっさきに浮かぶシーンの一つが「旅の仲間」のラストでボロミアがホビット二人を助けようとする場面ですが、僕はあそこでボロミアが「逡巡なく」助けにいくことに胸を打たれてしまいます。ボロミアは「自分より弱いものは庇う」という価値観が無意識まで浸透している人物なのであって、頭ではそう思っているけれど実際にそういう場面に出くわすと一瞬迷う、という人物ではないのです。逡巡するシーンが一切ないことによって、彼のその生き方が一瞬で伝わってきて、その高潔さに感動せずにはいられないわけです。ここでも、その感動を支えているのはあの瞬間の決断そのものというよりは、それを支えているボロミアの人物像であり、それを育んだ貴族的精神であるのですが、更にはトールキンを取り巻いているヨーロッパの歴史にも思いを馳せずにはいられません。

でも思い返すと、ボロミアの登場シーンはそんなに多くないし、脚本的にはそれほど丁寧に描かれていないかも。ショーン・ビーンが「芝居だけ」でそういう気にさせているのかもしれないですねえ。難しいなあ。

とりあえずイライジャ・ウッドに感情移入するのは、原作を読んでいてもなお難しい(笑)。原作ではフロドはうまく描かれているんですけどね。彼は原作を読んでないのではないか(笑)。

こうして考えると、「動機」はアクションを盛り上げる材料に過ぎないから、盛り上がれば何でもいい、というよりも、RPGでの経験も踏まえて言えば、むしろ「動機」(「戦いに突入する瞬間の精神」といっても良い)が極まれば、アクションはどう転んでもいい、とさえ思います。あるいは逆に、「動機」が極まった時にのみ、アクションは成功すると言うこともできるかもしれません。

「マッハ!」における動機の設計については、改めて書きます。

*1:少年漫画の主人公のライバルとしてはあり得ないネーミングですよね。外見もですが。

*2:こう書くと臭い程ですが、画力でもっていくんでしょうな。

*3:「いや、でもカーチェイスだけは凄いよ」とか言われて結局観てしまったりもするんですけど。