相互理解が可能だと認識されるとき

相互理解というのは、本質的に不可能であると考える立場があり、実際僕が他人と話すときは、そう感じていることがほとんどです。こうして書いている文を誰が読んだとしても、僕がどういう内部状態で書いたのかは誰にも分からないと思うのです。そして読み手がどのように受け止めたのかをこちらから知ることも、決してできないわけです。

認識論上、ある意味このような立場は悲観論なのですが、では我々が相互理解、あるいは少なくとも自分が他人に理解されている、と思う状態とは何であるのかと考えると、おそらく言葉をある人間の脳内の意味表現から別の人間の脳内の意味表現への写像であると考えたときの、一種のisomorphismなのではないかと思うのです。つまり、自分から発した言葉と、相手から返ってくる言葉を合成したときに、それが自己像に対する恒等写像のようになっていて、自分の情報が抜け落ちていない、という感覚を持ったときに、自分が相手に理解されたと感じるのではないでしょうか。自分が相手を理解している、という感覚は、別の説明が必要かもしれません。

ちょうど代数におけるisomorphismがそうであるように、これによって相手側の内部状態や理解のプロセスを問題にすることなく、自分を理解されたという感覚を語ることができるかもしれません。そうだとすると、最初に述べたような「理解されていない」という感覚を、相互理解がそもそも不可能であるという大原則にまで遡らずに、コミュニケーションの何らかの性質に帰着させることができるのではないでしょうか。

たとえば、選択公理(Axiom of Choice)と等価な集合論の公理に"every onto functon has a right inverse."というものがありますが、これを今の議論に当てはめるならば、相手が自分について充分に語る言葉を持っている場合は、自分から発する言葉をうまく選べば、相手に理解されている、と感じるコミュニケーションが存在する、ということになります。逆に「相手を理解する」には、自分が相手について充分に語る言葉を持つことが大事ということになり、日々の心がけのレベルではその辺を心がけることにしたらいいんでしょうか。