敷居の高さと作品の価値

http://d.hatena.ne.jp/ka-lei-do-scope/20040720#p1 のコメントとも関連しますが、作品の鑑賞に、知識や経験を前提とする作品は一般に「敷居の高い」と言われるわけですが、この敷居の高低をその作品の価値を評価するうえでどう考えていくか、という問題があります。

二つの場合があって、敷居の高い作品の分野が、社会的に認知されていたり特権的だったりする場合と、逆に卑下されている場合です。前者の場合(能・狂言や、クラシック音楽など)は、その分野に親しんでいること自体を作品の価値と無関係にステータスに感じてしまう人がいたり、逆にその分野に親しんでいないことを作品の価値と無関係にコンプレックスに感じてしまう人がいて、その両者の確執から「低俗な音楽は聴く気にならない」とか「高尚だからって何が偉いんだ」といった、議論の中に論者が埋没してしまった議論になる気がします。

おそらく重要なのは、社会的に認知されている分野に対する持論が、社会的に認知されていない分野(テーブルトークRPGとか……)に矛盾なく適用される、ということであろうと思います。

僕自身は、敷居の高い低いはその作品自体の価値とは関係ないが、敷居が高いとその作品を(そもそも)評価できる人の数が少なくなる、という構造なのではないかと考えています。したがって、「多くの人に評価される」ということ自体を価値に入れるならば、敷居が高いことは価値を下げるかもしれないですが。

また、敷居が高い分野が社会的に認知されるうえで、「敷居が高い作品ほど作品の魅力も深い」という相関があるとき、はじめて健全な文化と言えるのではないかと思います。つまり、より楽しむためには、より勉強しなければならない、最も勉強した者が、最も多くの楽しみを享受できる、という図式が健全であろうと思うのです。