すべての人の心に「ジョーズ」を

http://d.hatena.ne.jp/su1/20050521/p1

この記事は永久保存版ですね。すべての子供が斯くあれ、と思いますが、現実には「心にジョーズを持っている」ことは幸運なことなのでしょう。

僕にとっての「ジョーズ」は「社会思想社ゲームブック」なのですが、これについては(特にゲームブックとの初遭遇となった「バルサスの要塞」については)改めて語らなければなりませんが、取りあえずゲームブックは当時常に持ち歩き、中学時代に始めたD&Dでは「どうしてみんなにバルサスの要塞的感覚を与えられないのか」と試行錯誤しつづけ、日本中で流行したドラゴンクエストを「あんなものはゲームブックじゃない」(当たり前ですが)と否定し、ヨーロッパ旅行をするたび城とダンジョンに潜り「この街はゲームブックっぽい/ゲームブックっぽくない」という基準で観光先を評価する、という、その後の価値観の主軸を形成しているのは間違いありません。

ところが、僕はこれまで、同時代に「バルサスの要塞」に出会った同世代人の誰とも、「バルサスの要塞」の初プレイで受けた感覚をシェアしていないのです。「他作品に比べてそれほど秀作とはいえない」とまで言われる始末で、おそらく当時の僕の認識的・身体的・環境的条件と「バルサスの要塞」が出会うことで、何か作品の平均的な価値を超えたものが生まれてしまったのでしょう。ましてや、今現在、誰かに「バルサスの要塞」を渡してプレイしてもらったとしても、当時僕の中に起こったことは再現できないのです。

おそらく、そこで社会と自分の間にジレンマが生じて、「自分の中にしかない感覚が存在する」ということを強く意識するようになっていき、やがて、その感覚を身体の外に出したい、あるいは、自分がその感覚を再現しなければ、それは誰にも知られることなく消えてしまう、という想いが、自分を創作に向かわせているのではないか、と思います。もちろん、その感覚は色々な経験を経て雪だるま式に成長していて、いまや最初の核であった「バルサスの要塞」そのものではなくなっていますが。

ところで、僕にとって「ジョーズ」は「面白い映画の一本」に過ぎず、これは「ジョーズ」の平均的価値しか受け止めていないことを意味しています。しかしす一さんがあのように語ることで、僕は「ジョーズ」という作品に対して「自分の知らない価値を持っている」とみなし、謙虚になるわけです。また、「ジョーズ」について彼と語るときは、自らの「ジョーズ」体験を持ち出すことはできず、「バルサスの要塞」とのアナロジーでしか語れないと考えています。*1

*1:「ロンドンのフランス語訳はパリである」と言ったのは誰でしたっけ。