分かりやすさ

以下の二つは、教育における指導者と生徒の関係について、対立する意見になっています。

例えば一昔前、学校の教科書って《教科書マジック》っていうのがあって、わざとかどうかは知らないけれど、あえてわかりづらい表現になってる部分が意外に多かった。たぶん作り手の大先生方にとっての最大の目的が、私達のニーズとは違うところにあったのかもしれない。使う生徒の使いやすさと別のところに目的があるっていうか。教科書の最後のページにある編集者の教授方の名前の中には、亡くなられている大先生の名前もあったっていうんだから。で、大手の予備校がパ〜ッと全国区に広がって一大ビジネスになったのは、生徒の目線がわかる先生が、生徒にわかりやすい、覚えやすいテキストを作って指導をしたからでしょ? 今はわからないけど、私達の頃なんて、人気の先生の講義を申し込むのに朝から整理券を待って並んだり、先生が〜千万や〜億とかで引き抜きされてたりしてた。大先生はわかってるからいいけれど、わかんない私達には少々のことも難しくなる。そこで『こんなのあったらいいな…』っていう、その私たちの目線というかニーズがバッチリ見えてて、『こいつらここでつまづくな…』っていう事を踏まえて、試行錯誤出来た先生方が、大当たりして一大ビジネスを作る。これはどんな業界だっておんなじことなのだ。
「No!ちゃうで!」というやり方は日本では殆ど通用しない。というのは、現在の日本の社会環境の過保護化、それに子供の頃からの教えられ慣れからくる、自分の力で掴み取るという能力が低下しているからだ。その能力の低さを棚に上げ、教え方が悪い、教えてくれない、と自分の掴み取る責任をどこかに転嫁してしまうからだ。
間違っているということが分かれば「何が」に目が向き、「どこが」にも「どうして」にも目が向く。だから向上する。これが普通だ。しかし、一億総「誉めてあげなければ」という、時と場合を考えずに用いる言葉が人間を駄目にしていっているのだ。能力が低いのであれば上げればよい。ただそれだけのことなのだが、それを迂回させ誰かのせいにしてしまうのだから、自分の能力が育つはずもない。つまり、自分で自分の能力の芽を摘んでいるのが日本人だ。
ここには二つの異なる価値基準があって、鈴木浩子さんの方は商業主義的、日野先生の方は教育論的、と捉えればそれで終わるのですが、もう一歩踏み込んで、生徒にとってどちらが好ましいのかを考えてみたいのです。

つまり、 「大先生」による「生徒の使いやすさ、わかりやすさ」を考えていないテキスト と 「人気予備校講師」による「生徒の使いやすさ、わかりやすさ」を考えたテキスト のいずれが生徒にとって好ましいのか、ということです。

「後者が分かりやすいのは上辺だけであって、生徒は前者のようなテキストに、日野先生の説くような態度で向かっていくことが好ましい」という結論を出したうえで、同じことが、いわゆる敷居の高い芸術と鑑賞者の間にも言える、という方向に持って行きつつ、 http://d.hatena.ne.jp/ka-lei-do-scope/20050420#p2 と関連づけようと思っていますが、どういう議論を持ち出すかはまだ分かりません。ということで続く。