ぼくは勉強ができない:山田詠美




最初の短編のみ立ち読み。以前から、山田詠美には好き嫌いとか思想信条を越えて読ませる力があると感じています。

この短編で考えさせられたことは、勉強が嫌い、とか、勉強より〜の方が大事な気がする、という人は、実は勉強そのものが嫌いなのではなくて、勉強ができることで「エラそう」にしている生徒や、勉強ができる生徒を評価し、勉強ができない自分を評価しない他人(親とか先生とか)が嫌いなのではないか、と思ったのでした。

ついでに、日本でリベラルな人が右翼を嫌うのも、右翼が「エラそう」にしているからだとすれば、これは世間の色々な対立の背後に、論理ではない部分として横たわっているのかもしれません。煙草を止められない人に、なぜ止めないのかと尋ねたところ、「嫌煙家がエラそうに物を言うのが気に入らない」という答えが帰ってきたこともあります。まあ、その答えもエラそうですが。

カンタベリー物語」に登場する司教に依れば、「高慢」はキリスト教七つの大罪の一つだそうです*1。「エラそうにしたい」という欲望は、そのくらい古くから人間に巣くっていて、「思考停止」(ある程度考えたところで、その考えが正しいと思いこんで、その他の考えを持つ人をエラそうに批判したい)を引き起こしたり、「教育」を失敗させたり(教師が生徒に「エラそう」にすることなしに、生徒は教師から学べるか?軍隊ではどうか?)してきたのだと思います。というわけで、この「エラそう」問題は根が深い。