「独学に勝る勉強はない」

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_b18b.html

サルまん」のたけくま氏による「学校の勉強は必要ない」という主張ですが、たけくま氏のことは尊敬しているので、この考えにははっきり反対意見を書いておこうと思います。

「学校の勉強は必要ないのではないか」というときに、「社会に出てから学校の勉強が役に立つか」という疑問から考えようとするのは、そもそも間違っているのです。そういう疑問が出るということは、学校の勉強によって自分を変えることができなかったということであって、それは学ぶ側の問題です。学校の勉強自体が必要ない、という結論にはならないと思います。

たとえば「水泳教室に通ったが泳げるようにならなかった。しかし、その後の人生で水泳が役に立ったことはない」というのはおかしいでしょう。泳げるようにならなかったのだから、泳ぎが役に立つも何も、泳ぎが何の役に立つか知りようもないではありませんか。

泳げるようになった人は、社会に出てからも、定期的にプールで泳いで健康を維持したり、南の島でダイビングを習ったりするかも知れません。その恩恵に預かることは、水泳選手になるかどうかとは関係ないように思います。同様に、数学や物理の法則を知ったり、古典や外国語の文学に触れたりすることで人生観が180度変わることはしばしばあるわけで、その恩恵もまた、学問を仕事とするかどうかとは関係ないのではないでしょうか。その後の人生は、その新しい人生観と共に歩んで行くのであって、役に立つかどうか、というのは愚問でさえあるように感じます。そもそも「何が役に立つか」ということ自体が、その人の人生観をもとに決められるわけですから。

英語の勉強なども、よく「文法だけ学んでも、会話ができるようにならない」と言いますが、文法(と語彙)だけ学んでも、十分会話ができるようになると思います。「できるようにならない」という人は、英語のテストはすべて満点だったのでしょうか。文法の試験で満点を取っていないなら、それだけで会話ができるようになるかどうかなど、知りようもないはずです。

一方、「本当に好きなことは独学する」「独学で得た知識の方が何倍も身につく」というのは、いずれも正しいと思います。しかし、それならばなおさら、好きなことなどというのは学校で教える必要などなく、各自が一人で独学すれば良いのです。義務教育期間の学校の意義とは、むしろ「苦手なことを強制的に勉強させられることによって、脳と心を鍛える」ことではないでしょうか。

好きなことは強制などしなくても勝手に勉強するわけですから、勝手に能力も伸びて行きます。しかし、それが仕事になるか、というレベルになると、好きなことを取り巻くさまざまな副次的な能力が必要になりますよね。そのなかには、よほど運のいい人でない限り、苦手なことが含まれていて、その苦手なことがボトルネックになって、好きなことを伸ばし切れない、という場合が多いと思います。そのときに、学校時代に「好きではないことを強制的にやらされ、やり遂げる」訓練をしていれば、苦手なことにもあっさりと取り組むことができて、結果的に、好きなことを続けていけるわけです。言い換えれば、苦手なことをどのくらいやれるかが、その人のスケール感を決めると思うのです。

思うに、そもそも「学校の勉強など必要ない」というようなことを言いたくなるのは、上記の「強制的に」という部分において、学校の先生が生徒に対して持っている権威に対して反発がたまるからなんでしょうね。特に、その後社会的に成功すると、その反発心を世に問いかけたくなるかもしれません。しかし、そういう人の発言は社会に対して影響力があるので、よくよく内省して考えて見てほしいと思います。本当に言いたいことは、「学校の勉強は必要ないのではないか」ということではなく、「学校の勉強を必要だと言って自分に強制していたあの教師らより、自分の方が今は偉いのではないか」ということであって、それは真実なのでしょうから、教育問題にすり替えることなく、そのまま言えばいいのだと思います。ただし、たとえ教師に反発を感じたとしても、それは表に出さず、黙々と勉強すべきであろうと思います。学校に通う、とはそもそもそういう訓練なのですから。

ところで小室哲哉は懐かしの"Self Control"のなかで「教科書は何も教えてはくれない」と言っているわけですが、もし教科書が何も教えてくれないと思うなら、自分で本屋を回って、もっといい本を買うべきでしょう。