「世間」とは何か:阿部謹也


 ヨーロッパの場合には中世以来諸学の根底に共通の哲学と神学がある。いわば共通の世界観があり、それを前提として諸学の形式が決まってきたのである。わが国においては事情はまったく異なっている。
(中略)
明治以降西欧の学問が輸入され、特定の分野では大きな変化が生じた。一般の人々の世の中を見る方法には大きな変化はなかったので、世間という万葉以来の言葉が、今日まで用いられ続けている。しかし西欧の学問や技術を輸入しようとした政府や開明的な人々は、世間という言葉を捨てて社会という言葉を作った。そのとき古来の世間という意識に基づく社会認識を形のうえでは放棄し、西欧的な形式を選んだのである。
 しかしそれは西欧の形式の根底にある哲学や世界観をもたず、形のうえだけの模倣であったから容易に輸入できたが、その形式は一般の人々の意識から程遠いものであった。
 わが国の社会科学者は、学問の叙述に当たっては西欧的な形式を用いながら、日常生活の次元では古来の世間の意識で暮らしてきた。したがって叙述の中に自己を示すことができなかったのである。わが国の学問にはこのような問題があると私は考えている。

この本の主張は衝撃的でした。阿部先生は講演会で「学会で学者相手に「世間」の話をしても、何の反応もない」と嘆いておられましたが、僕には「世間」のような、自分の認識を形成する一部でありながら、自覚的な認識対象にはなっていない概念を取り出してみせる研究が最も難しく、かつ価値があるように思われるのです。