赤塚不二夫名作選〜型にはまる、型を破る、ということ














名作選(2)の「天才バカボン」と(4)の「レッツラゴン」を購入。赤塚不二夫氏は

『おそ松くん』のユーモアが『天才バカボン』でナンセンスに近づき、『レッツラゴン』でシュールに発展した。これは、オレの目指していた世界だった

と述べているそうだが、これはちくま文庫から出ている(やはりバカボンの名作選である)「バカ田大学なのだ!?」の巻末で椹木野衣氏が

岡本一平(画家になりたかった漫画家)→岡本太郎(漫画を読んで育った前衛芸術家)→立石紘一(ナンセンス漫画家に転身した前衛芸術家)→赤塚不二夫(ギャグ漫画家)という流れが、たしかに存在するように思えるのである

と分析し、

キュビズム、シュール、対極主義といった「前衛芸術」は、日本ではこうして、ギャグ漫画の一種として受容された

と述べているのと通じていて興味深い。

しかし、作者自身の思惑から離れて、上記二作の読後感を比較してみた場合、やはり赤塚漫画は「天才バカボン」をもって完成し、「レッツラゴン」ではそこからの脱却を試みたがあまり成功していない、と見るべきかもしれない。

ここでポイントになるのは、「型にはまる」という概念である。

バカボン」は良い意味で型にはまった漫画であり、「レッツラゴン」は型を破ろうとすることに終始する漫画である。もう少し正確に言えば、「レッツラゴン」は型を破ることに憧れて描かれた漫画である。

しかし、「型にはまる」ことを恐れ過ぎてはいけないのだ。多くの芸術家が「型にはまらない」ことを志して、「型にはまらない」という型にはまってしまうように、重要なのは型にはまるかはまらないかではなく、その型が他人の作った型か、自分で作った型か、ということなのである。

バカボン」が良い意味で型にはまっている、というのは、その型が赤塚不二夫氏自身の生み出した型であるからであり、その型はそれまでの全ての漫画の型を破った型なのだ。つまり、本当の意味で型を破るということは、新しい型の完成をもってなされるということだ。