薔薇の名前


この映画は見直すたびに、新しい発見があって面白さが増していく。おそらく、その間に勉強した中世史の知識や、ヨーロッパ旅行の経験などによって、個々のプロットや演出の意図が理解できるようになっていくからだ。

たとえば前回の鑑賞時には、まだ自分の中で「アリストテレス」や「トマス(・アクィナス)」の位置付けができていなかったように思われる。それらを理解してはじめて分かる台詞や行動の意味があって、その意味の重みを計算したうえでのプロット作りがあるということだ。

しかし、強調しておきたいのは、この映画を初めて観た高校生の時に、既に「最高に面白い」と感じていたことである。当時は上述の知識や経験などほとんどなかったにも関わらず、面白さの絶対値のようなものは既に感じ取っていたわけだ。

今の日本には、どこか「本格的」なものや「知識」に根ざしたものを嫌う傾向がある。「そんなことを追求しても、一部のマニアにしか受けないよ」という発言が多い。しかし、そういう発言をする制作者が「一部のマニア以外にも受ける、本当に面白い作品」を作った試しがあるのだろうか。

「一部のマニア以外にも受ける」作品を作るためには、「観た人がマニアに変わる」ような作品を作らなければならないと思う。